岡倉天心

提供: Yourpedia
2008年5月15日 (木) 14:32時点における60.33.35.47 (トーク)による版 (新しいページ: ''''岡倉 天心'''(おかくら てんしん、男性、文久2年12月26日1863年2月14日) - 大正2年(1913年)[[9...')

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

岡倉 天心(おかくら てんしん、男性、文久2年12月26日1863年2月14日) - 大正2年(1913年9月2日)は明治期に活躍した美術家美術史家美術評論家美術教育者である。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。弟の岡倉由三郎英語学者横浜生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。

福井藩士だった・岡倉勘右衛門は貿易で、幼いころから英語に慣れていた。東京開成所(のちの官立東京開成学校、現・東京大学)に入所し、政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことから同校講師アーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。また天心は明治15年(1882年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころである。また専修学校の師弟関係で浦啓一も天心と出会い、天心の指導によりその一生に決定的な影響を受けたのである。

明治23年(1890年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は日本(の美術史学)における日本美術史叙述の嚆矢とされる。

東京都台東区岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)がある。また、ニューヨークで英語で「茶の本」を出版して100年にあたる2006年10月9日に、天心が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われた。

来歴[編集]

  • 明治13年(1880年)、東京帝国大学卒業。
  • 文部省勤務。アーネスト・フェノロサと日本美術を調査。
  • 明治15年(1882年)、専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し、学生達に大きな影響を与えた。
  • 明治19 - 20年(1886 - 1887年)、東京美術学校設立のため、欧米視察旅行。
  • 美術雑誌国華』創刊。
  • 明治20年(1887年)、東京美術学校幹事。東京美術学校は明治22年(1889年)に開校した(現・東京藝術大学美術学部)。
  • 明治23年(1890年)、東京美術学校第2代校長(初代は浜尾新)。27歳のこの頃もっとも活動がさかんであった。同校での美術教育が特に有名で、横山大観下村観山菱田春草らを育てたことで知られる。
  • 明治31年(1898年)、東京美術学校を排斥され辞職。同時に連帯辞職した横山らを連れ、日本美術院を上野谷中に発足させる。
  • 明治34 - 35年(1901 - 1902年)、インド訪遊。
  • 明治36年(1904年)、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられる[1]。この後は館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなり、それ以外の期間は茨城県五浦のアトリエにいることが多くなり表立った活動は少なくなった[2]
  • 明治38年(1906年)、美術院の拠点を茨城県五浦に移す。この団体は岡倉の活動が鈍るにつれて活動も減少するが岡倉の没後、横山らによって再興された。
  • 明治43年(1910年)、ボストン美術館中国・日本美術部長。

親類縁者[編集]

子の岡倉一雄は朝日新聞記者で天心の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎非同盟運動にも関わった国際政治学者。曾孫(古志郎の子)の岡倉徹志中東研究者。玄孫(徹志の子)の岡倉禎志写真家西洋史学者の岡倉登志は曾孫。

岡倉家の祖先は、浅井長政が有名な近江国戦国大名浅井氏の一門であると言う。

逸話[編集]

  • 明治36年(1903年)、天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け、横山、菱田らの弟子を伴って渡米。羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に1人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた。「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言われた天心は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。
<原文>
"What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"
"We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"要出典
  • 当初は天心を引き立てた上司である文部官僚の九鬼隆一男爵の妻・波津子(九鬼周造の母)との不倫関係は彼の更迭との関連をも噂され、世情の好奇の対象となった。

関連著作[編集]

  • 『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』 1903年 ジョン・マレー書店(ロンドン) 日本語訳:『東洋の理想』
  • 『The Awakening of Japan』 1904年 センチュリー社(ニューヨーク)及びジョン・マレー社(ロンドン) 日本語訳:『日本の目覚め』
  • 『THE BOOK OF TEA』 1906年 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク) 日本語訳:『茶の本』岩波文庫 村岡博訳 1929年 ISBN 4-00-33151-5
  • 岡倉天心全集
  • 宮川寅雄著『岡倉天心』 1956年 日本美術史叢書
  • 斉藤隆三著『岡倉天心』 1960年 人物叢書
  • 木下長宏著『岡倉天心』 2005年 ミネルヴァ書房

脚注[編集]

  1. アメリカでの教え子の1人に、ラングドン・ウォーナーがいる。
  2. アトリエの跡地は現在、茨城大学五浦美術文化研究所となっている(「五浦海岸」の項参照)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

Wikipedia-logo.svg このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・岡倉天心を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。